SNS向きでない長文転記場所

5年くらい前に他で公開した文章をほとぼりが冷めたころに転載したものです

第54話 さくらと思い出のカレンダー

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神戸市須磨区に位置する須磨寺は源平ゆかりの古刹として知られ、街から近いこともあって今でも人手でにぎわう場所です。
しかし、私は今まで須磨寺は訪れたことがありませんでしたので、山陽電鉄に乗って須磨寺を訪れてみました。

須磨寺公式サイトの「歴史年表」見てみると、
---引用ここから---
1891年(明治24年
若木の桜にちなんで寺内桜の名所となり、須磨寺を中心とした大遊園地ができる。
---引用ここまで---
とあります。

歴史年表|大本山 須磨寺

もともとこのあたりは単なる山林だったのですが、明治の末期以降に兵庫電気軌道(いまの山陽電鉄)が須磨寺と共同で開発を進め、「須磨寺遊園地」がオープンしたのです。
園内には桜が大量に植えられて奈良の桜の名所にちなんで「新吉野」と称し、また動物園や菊人形館なども併設されており、昭和10年代までは大いににぎわったそうです。
山本周五郎による大正15年のデビュー作「須磨寺付近」では、須磨寺の秋の風情が描かれているそうですが、春になると関西屈指の桜の名所として有名でした。
しかし、現在須磨寺にいってみると、遊園地がないのはともかくとしても桜がそれほど多いようには見えません。
むしろ周囲にはもみじや松、くすのきなどが目立ちます。
一帯どういうことでしょうか…。

最近読んだ「観光と空間」という本に、「花見名所の創出」という文章が掲載されていて、ここに答えが記されています。
(実は、今日須磨寺に行った動機も、この本を読んだからなのです。)

https://www.amazon.co.jp/dp/4779503647

---引用ここから---
市電須磨線が離宮道まで延伸されたのが大正15年6月、そして須磨駅前を終点として延伸されたのが昭和12年1月である。
その結果、明治43年から須磨―兵庫間で営業していた山陽電鉄(旧・兵庫電気軌道)にとって、市電は「厳しい競争相手」となった。
つまり、山陽電鉄は、神戸の市街地と須磨寺遊園地とを結ぶ唯一の鉄道としての地位を失ったのである。
すると山陽電鉄は、驚くべき行動に出る。
なんと「……市電に客を奪われたので商売にならぬと新吉野の桜を一本残さず明石に移し植え」てしまったのだ。
---引用ここまで---

路面電車(今の地下鉄)が競争相手として現れると、即座に須磨寺遊園地の経営を放棄して他の場所に退去したのです。

須磨寺にとっては、青天の霹靂だったことでしょう…。
経営のためには仕方ないのでしょうが、「ぐう畜」といってもいいくらいのドライさです。
今日は現地を見てきましたが、かつての遊園地中心部の大池周辺にはわずかに桜が見られましたが、とても名所として売り出せる状況ではありませんね…。

写真は、今日と大正ごろの大池の比較です。
大正時代のBの建物の位置には、現在は寿楼というホテル(白い建物)があり、辛うじてかつての保養地の名残を見せています。
しかしそれ以外は空き地かマンション、駐車場が広がるのみです。

(2014年11月16日)