SNS向きでない長文転記場所

5年くらい前に他で公開した文章をほとぼりが冷めたころに転載したものです

非現実のサクラは、かくも満開に咲く。

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今日は本当は出勤日だったのですが、あんまりお仕事が詰まっていなかったのと、昨日遊びすぎて疲れたので半休をいただきました。
ハンキュウベリーマッチ。

おととい、「久坂葉子がいた神戸」という企画展を目当てに、神戸文学館なるところに行ってきました。

神戸文学館ホームページ

最近、富士正春の「軽みの死者」という本を読んで久坂葉子のことを知って興味を持ったのです。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000J6RWPG/

久坂葉子は本名を川崎澄子という1931年産まれの女流作家です。
わずか19歳にして芥川賞の候補になったのですが、21歳の大晦日に阪急六甲駅で飛び込み自殺してしまいました。
文学館に行く過程で六甲駅を通ったのですが、当然ながらここで起きた60年以上前の飛び込み自殺の形跡などなく不思議な感じです。
企画展はまあありがちな写真とか自筆原稿とかの展示でした。
ただ、会場においてあった来場者ノートに、
「川崎澄子さんとは知り合いでした」とか
「久坂さんはいつも××への寄り道で私の家を訪ねてくださいました」
というような書き込みがあって、突然ぶわっと鳥肌が立ちました。
この感覚、わっかるかなー?わかんねーだろうなー?いえーい。

冗談はさておき。
本でしか読んだことのない久坂葉子が、いきなり実体として立ち上がって私のいる「この世」とつながったことが私の心を刺激したようです。
つまりは、今この時代に生きている我々は、本の中の世界でしかない久坂葉子とつながっている…「軽みの死者」に書いてあることは、確かにこの世で実際に起きたことなのです。

私は、会社の社史などを読むのが大好きですが、これも似たような動機なのかもしれません。
かつて、大量の人々が、人生のうちの長い時間を費やした会社生活。
今となってはそこで産み出されたものは陳腐化し、現代に直接あたえる影響は著しく磨り減ってしまっています。
当時の新入社員すらもすでに定年退職していたりして、いまその状況を直接知る人もほとんど存在しなくなりつつあります。
しかし、この社史にかかれてあったことは実際にあったことなのです。
この世界に生きる大多数の人々は無名であり、早くもその人生の後半には、前半生に成し遂げたことが忘れ去られてしまいます。
でもしかし、だからといってそれらのことがなかったわけではなく、本当にあったことなのです。
私はこの実在感に安心を覚えているのかもしれません。

最近、「中二病でも恋がしたい!」というアニメを見ました。
一言でいうと、下に貼ったgif画像のようなアニメです。

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この中で、高校1年生の富樫勇太が中二病を卒業しようとして痛いアイテム類を捨てようとしたときに、同級生の小鳥遊六花に止められるというシーンがあります。
一方で、小鳥遊六花中二病を卒業しようとした際には、富樫勇太はその荷物整理を寂しそうに眺めます。
(結局はどちらも中二病を卒業することはなかったのですが。)
他人事ながら、過去を封印してなかったことにしようというその行為に、寂しさを感じてしまったのでしょう。
それは、中二病時代にその人と一緒に過ごした事実すら封印されて、なかったことになるような感覚とも直結するものだからです。
(他人が荷物捨てようが何しようが、文句言える筋合いではないのですが)
これも一種の実在感の喪失といえると思います。

こういうことを書くと、非現実の象徴ともいえるアニメから「実在感」とか言い出すこの中年おっさん死ぬほどモイキー、とか思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、非現実世界も過去の世界も、今まさに現在に生きる私から見れば、その存在を直接感知できない点においてはどちらも似たようなものなのです。
そして、
「非現実のサクラは、かくも満開に咲く。」
なんてことばもありまして、非現実世界の実在感には本質的に人をひきつけるものがあるのですよ…。

(2014年11月03日)