SNS向きでない長文転記場所

5年くらい前に他で公開した文章をほとぼりが冷めたころに転載したものです

漫画やラノベ等における登場人物の名前について

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漫画やライトノベルにありがちな要素の一つとして、

「登場人物の名前が希少なものである」

というのがあります。
最近の作品で典型的なのは「化物語」シリーズでしょう。
阿良々木(あららぎ)、戦場ヶ原(せんじょうがはら)、八九寺(はちくじ)、老倉(おいくら)、影縫(かげぬい)、臥煙(がえん)…。

【物語シリーズ】登場人物の一覧 - NAVER まとめ

こんな苗字の人には誰一人としてお目にかかったことがありません。
西尾維新の作品には、鈴木とか斉藤とかそういう名前の人は登場しないのです。
「戯言」シリーズに出てくる「七々見奈波(なななみななみ)」とか、もはや冗談のような名前です。

また、一部ラノベ珍名マニアには、相生生音(あいおいいおん)という作家の「泣空ヒツギの死者蘇生学」というライトノベルが有名です。
(参考:http://d.hatena.ne.jp/Ivan_Ivanobitch/20081016/1224138197
個人的には、上記のページには掲載されていませんが「四刀井諦(しかたないあきら)」というキャラクターの名前が好きです。
2ちゃんねるみてみると、このあたりにその他有名どころのキャラクターの一端がまとめられていましたので参考になるでしょう。
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/magazin/1339166109/1
私自身、同姓同名が大量に存在するありふれた名前なので、珍しい苗字とかは少しだけ憧れますが…。

なぜこんなことを急に言い出したかというと、最近読んだ漫画やらラノベやらに、「小鳥遊(たかなし)」さんが次々と登場したことに気づいたからです。
 小鳥遊六花中二病でも恋がしたい! )
 小鳥遊宗太(WORKING!!
 小鳥遊空、美羽、ひな(パパのいうことを聞きなさい!
これについてはすでに2008年に調査結果が公開されており、実在の小鳥遊さんよりも架空のキャラクターの小鳥遊さんのほうが多いということがわかっています。
(参照:架空の小鳥遊姓の数は現実を超えたか? http://dakuryu.at.webry.info/200807/article_8.html

そもそも、「小鳥遊」さんは「高梨」が転化したものです。
全国に「高梨」さんは数千人いるといわれるのに対して、「小鳥遊」さんは和歌山県を中心に10人も存在しないとか言う話を聞きます。
(一番有名な「高梨」さんは、スキージャンプの「高梨沙羅」さんでしょうか。)
ラノベや漫画で変わった名前を採用するのが悪いとは言いませんが、「小鳥遊」の苗字の乱用はリアリティの面からいうと大きなマイナスの効果となってしまうのはやむをえないことです。
名前における見た目の派手さを追求するあまりの風潮といえましょう。

ここで、キャラクターの姓に「小鳥遊」ではなく「高梨」を採用している硬派な作品があります。
それは、「お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!」に登場する高梨修輔、奈緒の兄妹。
http://webaction.jp/webcomic/onichan/
これは、「お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃないんだからねっ!!」がリアリティをあくまでも追求した作品であることの証左と言っても過言ではないと考えますが、果たしていかがでしょうか。
賢明なる諸兄の意見を待ちたいと思います。 

(2015年06月15日)

詩仙堂は恐ろしいところでした

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京都の一乗寺と呼ばれるあたりに、詩仙堂という有名なお寺があります。
江戸時代の趣味人が隠居のために作った山荘跡で、とくに庭園が有名なところです。
紅葉の時期にはとんでもなく混雑するそうですが、今の時期だったらちょっとは空いているかな、と思って行ってみました。

久々に乗る叡山電鉄は、きんいろモザイクとのコラボ車両。
うひひ、萌えでヤンス。萌えでヤンス。
https://twitter.com/eizandensha/status/602879473113935873
叡山電鉄まんがタイムきららのコラボは、もはや定番ですね。
京都は萌えコラボの聖地と化しつつあります。
平安以来の日本伝統文化と、近代の萌えという新日本文化のマッチング!
故きを温ね新しきを知る、温故知新です。
そういえば、「温故知新でいこっ!」という萌え曲もありましたね。

www.youtube.com
それはそうと、詩仙堂に到着。
さすがに庭園はきれいなのですが、なんか庭園を眺める部屋では恐ろしい戦いの真っ最中でした。
超でかい一眼レフを構えてでかいリュックを背負ったおっさんが数人、少しでも良いアングルを確保しようと縄張り争いしていたのです。
ほかの観光客が去った瞬間、その場所を確保して写真を撮るのですが、そうかと思ったらその視野内に別のおっさんがすばやく入り込んで口論になったり。
おおくの観光地ではカメラよりもスマホで写真撮る人のほうが多いのですが、ここは完全に一眼レフが優勢です。
そして、一眼レフってけっこううるさいのですよ。
ぴぴっ、ぱしゃ。ぴぴっ、ぱしゃしゃしゃしゃしゃ(連写モード)。
とんでもないカオスです。
私も写真撮るのが趣味なので人のこと言えませんが、報道カメラマンってこんな感じだろうかと思いました。

これは下手に動き回るとこちらまで文句言われかねないので、早々に退散。
時間が余ったのでとなりの圓光寺に行ってみました。
何も調べていなかったのであまり期待していなかったのですが、こちらの庭もきれいでしたよ。
あと、「徳川家康の墓」のある裏山に上ると、洛北の町並みが一望。
思っていたよりずっといいところでした。
徳川家康の墓というのは、どうかと思わなくもないですが…。

写真は圓光寺の十牛之庭。
すずしくて、私以外にだれもいなくていいところ。 

(2015年05月31日)

いまさら「はじめての海外文学」フェアのはなし

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私も平均よりは本を読むほうなのですが、いろんな種類の本を少しずつ読みちらすせいで、いっこうに特定のジャンルには詳しくなれそうな雰囲気がありません。
ノンフィクションは本の題名を見ればだいたい中身が想像つくのですが、とくに小説はある意味「ジャケ買い」せざるを得ないところもあり、選ぶのに本当に苦労します。
たまに、特定の全集をしらみつぶしに読んだりするのですが、これもおもしろそうな本を選び出す自信がないからです。

ちょっと前の話ですが、丸善ジュンク堂(通称「ジュルゼン」)にて開催された「はじめての海外文学」フェアが話題になりました。
http://www.junkudo.co.jp/mj/store/event_detail.php?fair_id=8328

特徴は
・50人の選書人が1冊ずつ選んだオススメ本
・値段は最高2500円
ということ。

海外の小説は、内容の推測が困難であることに加えて、著者の知名度が日本で低かったり、ときに酷い翻訳のものに当たってしまったり、またはある程度当該地域の歴史や習俗に詳しくないとピンとこないものもあったりして、ハードルが高いのは確かです。
こういうフェアだけで急に海外文学が人気になるとは思えませんが、フェアの後もネット上に記事が残るので、あとから目に見えない効果があるかもしれません。

一方で、ある有名なお方からは、このようなコメントがありました。
「2500円以上する翻訳小説を見てすぐ「高い」と言う人は貧乏じゃなく貧相なの、けちんぼなの。」
これは!祭りの予感!
喧嘩と火事はネットの華!
みwなwぎwっwてwきwたwぜwww!

このお方は安い書籍をオススメするかわりに、
「普段から海外文学をめちゃくちゃ楽しそうに読んでいる様を見せつけます。
めちゃくちゃ楽しいと言い続けます。
わたしはそれを書評という仕事でもやっているつもりです。」
とのことです。

しかし、そもそも海外文学を知らない人が、このお方の書評やイベントにたどり着く可能性なんて、「微粒子レベルで存在」程度のものですよ。
おそらくは、
 1. これから海外文学に触れようと思っている人向けの活動
 2. すでに海外文学に親しんでいる人向けの活動
を完全に混同しているのでしょう。
このお方のやっていることは、主に2のほうです。
海外文学にある程度入り込んだ人を離さない効果はあるかもしれませんが、全くの未経験者を取り込む効果ははっきり言ってゼロだと思います。

あらゆる文化に共通の現象として、裾野が広がれば広がるほど、文化の「純粋性」は失われることとなります。
いつぞやも書いたかもしれませんが、柔道における「カラー柔道着」が好例でしょう。
柔道を世界的なスポーツに!と主張する人が、同時に白い道着は柔道の精神性を示したものであり、不可侵である!と主張するのは滑稽なことです。
そんなに純粋性を保ちたかったら、ごくごく内輪のサークル内の活動にとどめるべきでしょう。

今回の方についても同様です。
「2500円を本に支払う覚悟のない人間は貧乏であり貧相でありケチンボである」
という主張からは排他性以外を感じることはできませんが、本人は排他的であることすら自覚できていないのでしょう。
これは、自らの所属する集団を外からの目で見ることの困難さをよく示している例だと思います。
内向きの意見ばかりを聞きすぎると、それがすべてだと勘違いしまうのですね…。

(2015年5月31日)

採石場の島

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姫路沖に浮かぶ家島諸島のひとつ、男鹿島と坊勢島に行ってきました。
男鹿島は「たんがしま」と読み、島に鹿が住んでいることに由来する名前だそうです。
姫路港から一日4往復、高速艇の定期便が出ているのですが、ネットで探してもほとんど情報がない状態…。
釣り客に人気があり、民宿があるのはよくわかったのですが…。
 
男鹿島で船を下りたのは私一人でした。
港(というか桟橋)では、いきなり歯の抜けた愛想の良いおじいさんに、聞き取りづらい言葉で話しかけられます。
「なにしにきた?」
よっぽどの暇人で、定期船から降りてきた人を見つけて話しかけるのが趣味なのかと思ったのですが、どうやら汽船会社の人だったようです。
「今日は現場休みだから、どこでも歩けるよ。」
現場?さすがに採石場の私有地に進入するつもりはないのですが…。
 
てくてく歩き回って、すぐにわかりました。
島には集落がいくつかあるのですが、集落間を結ぶ公道は存在せず、私有地を通らなければ集落にたどりつくことすらできないのです。
よって、すべての自動車にはナンバープレートがありません。
「立ち入り禁止」の看板があるのですが、汽船会社のおじいさんを信じてずんずん進みます。
私もいろんな離島に行きましたが、これほど人に出会わないのは初めてですよ。
公民館のようなものがあったので、無人島ではなさそうですが…。
陸地に目を向けると、長年の採石の結果地形がとんでもないことになっています。
まるでモニュメントバレーのような壮大な景色。
ここ、観光地として売り出したらそれなりに人が来そうですが、本来は採石場だからあまりおおっぴらに宣伝できないのですね…。
私が立ち入っているのも、不法侵入として怒られても文句が言えないのです。
船の時間の都合があって途中で引き返したのですが、一日ちゃんと時間とってまた来ようかなと思いましたよ。
 
そこからさらに船に乗って坊勢島へ。
こちらは漁業以外に産業があるように見えないのですが、町は相当栄えていましたよ。
最近建てたと思われる立派な家や、学童期の子供をたくさんみかけました。
坂と細い道が多いので、島の交通は原付が中心です。
交通取締りが全く成されていないためか、原付の2人乗りはあたりまえ。
お母さんと子供3人の合計4人乗りまで見かけました。
一番後ろの長男?はギリギリ落ちないようにしがみついていました。
こちらもあんまり観光に力入れている感じではありません。
普通の町ですね…。
 
写真は男鹿島にて撮影。
この中途半端な植栽は、男鹿島中でみられます。
(2015年5月17日)

手仕事、いまだ健在なり。

「手仕事」という単語は過去からの正当性、人の温かみ、物語性を有しているとかいう「手作り神話」的なものを意味することが多いですが、今から書くのは違った意味です。

私の仕事では、特許や論文などを検索することがあります。
検索方法はgoogleでネットを探すのとあまり変わらず、適当なキーワードを設定してデータベースから文献を探すというものです。
入社したばかりの後輩に論文検索をお願いしたことがあったのですが、2時間後くらいにようすを見てみたら全然進んでいません。
話を聞くと
「検索結果が100件くらい出てきたから、キーワードを色々変えて試していた」
とのことでした。
どうも話を聞くに、コンピューターが適切な結果を一発で出せるような仕組みを作ろうと四苦八苦しているうちに、時間を浪費してしまったのです。
100件くらいなら、タイトルを全部ざっと見て、見るべきものを総当りしたほうが絶対に早いのですが、その後輩はそういう人力による総当りはあまり好きではない?ようでした。

人力による単純作業というは、この時代にも全く消滅していません。
一例に、「Amazon Mechanical Turk」というものがあります。
これは、ネット上でできる単純作業のバイトのようなものです。
例を挙げると、大量の写真の中からネコが映っているものをひたすらピックアップしていく、というような類のものです。
現段階ではコンピューターが自動的にネコの写真を判別することは困難なので人力に頼るしかありませんが、だからといって人がやる作業としてはクリエイティブとはとてもいえたものではありません。
(これを「機械仕掛けのトルコ人」とは、トルコ人に対してあまりにもあまりな言い方だとは思いますが。)
このような作業を通じて大量のデータを蓄積して、いつしかパソコンが自動的にネコを判別できるような仕組みを作ろうという狙いもあるようですが、まだしばらくは先のことでしょう。

とはいえ、手作業による単純作業は必要悪として一概に軽んじるものではないと思います。
小さい頃にやらされた漢字の書き取りはつまらないことですが、これを通じて漢字の書き方を体に覚えさせるという作用が期待できます。
野球の素振りや踊りの練習も似たようなものでしょう。
また、就職活動の時期になると
「履歴書をなぜわざわざ手書きにしなければならないのか?」
という話が毎年持ち上がります。
これは、学生に苦行を課したいわけでも、手書き信仰(手作り神話)があるわけでもありません。
履歴書がプリントアウト化だとしたら、一人の学生が入社応募できる会社の数が極めて多くなってしまいます。
その結果、各社の担当者が応募者の振り分けにかかる手間が増大してしまうので、応募に対するハードルを上げることで、手間を減らそうとしているのでしょう。
というようなことは、いまさら言われなくても知ってるよ、という人も多いかもしれませんが…。

最近、手仕事の偉大さを改めて認識させられたニュースがあります。
千葉県の3大有名人といえば、ふなっしー、千葉ットマン、そしてもう一人が今回の主題である千葉のYさんです。
ジャンプで連載している「ニセコイ」という漫画で、キャラクター人気投票が実施されたのですが、千葉のYさんは一人で手書きで1500票を特定のキャラクターに投票して話題になりました。

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これを受けて実施された第二回人気投票。
今度はYさんの推す万里花を2位になりました。
4518票のうちどの程度がYさんの仕業なのでしょうが…。
そしてそれ以上に驚異的なのは、19位に本人がランクインしたということ。
「漫画の人気投票で読者がランクインするという、ジャンプの伝統あるイベントの新たな地平を切り拓いてくれたYさんの功績は計り知れない」ということばは、彼の手仕事の偉大さに対して向けられたものです。

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その後、キャラクターではなくエピソードの人気投票が行われた際には、一人による大量の投票を防ぐために応募券制度がとられたのですが、このときも千葉のYさんは一人で800票を投じたのです。

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ジャンプ1冊250円(税抜き)として、800冊で20万円。
そしてそれ以上に驚異的なのは、本当に800冊を調達するという行動力です。
たとえ20万円もらったとしても、ジャンプを800冊調達することはとんでもない労力が必要なのです。

手仕事、いまだ健在なり。

(2015年04月19日)

銀閣寺から琵琶湖疏水まで

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目が覚めたら5時台。
私の体内時計は、一日が22時間くらいのようで、ほっとくとどんどん早起きになります。
今日は天気がいいようなので、銀閣寺に行ってみることにしました。
銀閣寺も20年ぶりくらい?です。

開門時間の8時半ちょうどくらいに着いたのですが、すでに10人くらいが門の辺りにたむろしていました。
修学旅行生がちらりほらり。
なかは、私のような素人にとってはごくごく普通の日本庭園の景観です。
こじんまりしていいところ…。

今日の目的を早々に達成してしまったので、とくに目的もなく近所にある「哲学の道」を南下します。
何回か歩いたことがある道ですが、正直そんなにすげーきれいな気はしませんよ。
桜が大量に植えられているので、お花見散歩にはいいかもしれません。
外国人の方々がこぞって、タブレット使って桜の写真とっていました。
ハンカチ落とした人がいたので、むかしのNOVAのCMみたいに
「おー!ゆーどろっぷとあはんかちーふ!」
とか言おうかと思いましたが、幸いいらんこと言わんでも当人がすぐに気づきました。
 https://www.youtube.com/watch?v=-Tf65KeLgpQ 

哲学の道の終点は南禅寺
南禅寺はいったことないので、ためしに入ってみました。
石川五右衛門が「ぜっけーかな」と言ったことで有名な三門にのぼってみたのですが、予想通り高くて怖い!
手すりもスカスカなので、足をすべらしたらいつでも落下してしまいそうです。
「絶景かな、絶景かな」京都南禅寺の三門からの眺めを楽しむ | 京都府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド

南禅寺には、水路閣というアーチ橋が貫通しています。
これは明治時代に作られた琵琶湖から京都までを結ぶ水路である「琵琶湖疏水」の一部で、歴史的にも高い価値があるそうです。
何を隠そう、今日の今日まで水路閣の存在をぜんぜん知りませんでしたが、超有名スポットだそうですよ。
南禅寺掲題から水路閣にのぼると、水路に沿って遊歩道が琵琶湖に向かって伸びています。
水力発電所なんかが途中にあったりして、すげー快適な散歩道。
よくできた観光地です…。

写真は銀閣寺。
観光案内なんかにはあんまり書いてないみたいですが、境内には足利氏が熱心に信仰したという八幡社が設置されています。

(2015年04月12日)

ぶちぶち…

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ちょっと前に麻雀やってて思ったことを書きます。
10000人いたら9999人の方にとってはどうでもいい話です。
まじめによむとがっかりする類の文章です。

 

「ぶち殺す」みたいな感じで動詞の前に乱暴さを強調するために追加される接頭辞「ぶち」って、意外にこのままの形で使われる例が少ないように感じます。

「ぶち殺す」「ぶちかます」「ぶちあげる」「ぶちまける」「ぶちのめす」「ぶちきれる」「ぶち壊す」…ほかなんかありましたっけ。

例えば、「蹴る」「攻める」などエ段で始まる語には、乱暴な意味の言葉であっても「ぶち」が使われることは少なくとも標準語ではほぼなさそうです。
また、
「ぶっ倒す」「ぶっ掛ける」「ぶっ刺す」「ぶっちぎる」「ぶったたく」
「ぶん回す」「ぶん投げる」「ぶん取る」
というように、促音便、撥音便の形で用いられることもあり、「ぶち」そのままはかなり珍しい部類に入るのかもしれません。
この意味においては、添付画像のような「プチ殺しますわよ」の表示が可能になったのは、日本語の偶然の産物のように思えたりもします。

ここで、どういうときに促音便、撥音便になるのかを考えてみると、法則性がありそうでなさそうな感じ。
例えば、同じ「か」で始まる語であっても、
「ぶちかます」「ぶっ掛ける」という風に、音便を取るものと取らないものがあります。
一方で、「ぶち殺す」「ぶっ殺す」のように、同じ語でも音便をとってもとらなくても自然な日本語になるものもあります。

五段活用の連用形+過去の助動詞「た」でもこういった音便変化は見られるのですが、こちらに関しては活用語尾の行によってどういう音便をとるかがほぼ法則化されていて、例外は数えるほどしかありません。
(参考:品詞の説明:Maniac-IME
これと比較すると、「ぶち」の法則性は相対的に低いように感じます。

 

いや、何が言いたいかというと、麻雀やってて「ぶっ通し!」とか叫ぶ場面がよくあるのですが、これが「ぶちとおし」でも「ぶん通し」でもなく「ぶっ通し」なのはなぜだろうかということなのです。
「ぶっ通し」がしっくりくるのは確かなのですが…。

(2015年04月12日)